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ヴィルヘルム・ヴェーバー(Wilhelm Weber, 1918年3月19日 - 1980年3月2日)は、第二次世界大戦期ドイツ国(ナチス・ドイツ)の軍人、武装親衛隊将校、騎士鉄十字章受章者。 1937年に親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)へ入隊し、1939年9月のポーランド侵攻・1940年5月~6月の西方戦役・1941年6月のソビエト連邦侵攻作戦「バルバロッサ」に参加。SS「ヴィーキング」師団「ゲルマニア」連隊の一員として東部戦線で活躍し、1941年付で一級鉄十字章を受章。1943年3月10日付でSS少尉(SS-Untersturmführer)に任官した。 1944年秋、フランスSS部隊総監グスタフ・クルケンベルクSS少将(''SS-Brigf.'' Gustav Krukenberg)に抜擢されてSS所属武装擲弾兵旅団(後に師団)「シャルルマーニュ」(Waffen-Grenadier-Brigade der SS „Charlemagne“)に着任。エリート歩兵部隊「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)の指揮官を務め、1945年2月下旬のポメラニア戦線に出陣。2月25日午後、エルゼナウ(''Elsenau''、現オルシャノボ(Olszanowo))の戦いでヴェーバーの名誉中隊は「シャルルマーニュ」師団司令部に迫ったソビエト赤軍戦車部隊(少なくとも14輌以上の敵戦車)を対戦車兵器で殲滅した。 独ソ戦の最終局面である1945年4月末、ヴェーバーは「シャルルマーニュ」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵の1人となり、「フランスSS突撃大隊」(Französische SS-Sturmbataillon)に配属された「戦術学校」(Kampfschule)(旧称:名誉中隊)の指揮官としてベルリン市街戦に参加。パンツァーファウストを用いた近接戦闘で赤軍戦車を多数(単独で8輌もしくは13輌)撃破した功績により、1945年4月29日、ドイツ国(ナチス・ドイツ)最後の騎士鉄十字章受章者の1人となった。最終階級はSS中尉(SS-Obersturmführer)〔。 == 親衛隊入隊までの経歴 == 1918年3月19日、ヴィルヘルム・ヴェーバーはドイツ帝国の構成国の1つであるプロイセン王国のヴェストファーレン・ピヴィッツハイデ(Pivitsheide)に生まれた。父親は石工であった〔〔Forbes, p213〕。 国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP:ナチス)の青少年団体「ヒトラーユーゲント」(HJ)加入後、ヴェーバーは1932年から1935年の間に大工としての基礎訓練に従事し、後にデトモルト(Detmold)の商業高校に入学した。1936年4月1日にはバート・ザルツフレン(Bad Salzuflen)において国家労働奉仕団(RAD)に加入し、1937年3月31日まで在籍した〔〔Forbes, p214〕。 1937年6月26日、当時19歳のヴェーバーは親衛隊(SS)の軍事組織「親衛隊特務部隊」(SS-VT:後の武装親衛隊)へ入隊し(SS隊員番号317 272)〔、ハンブルクのSS連隊「ゲルマニア」(SS-Standarte „Germania“)第1中隊に配属された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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